昭和43年3月28日夜の御理解 今朝から、朝のご理解に・・・『金の杖をつけば曲がる、竹や木は折れる、神の杖につけば楽じゃ』と、おっしゃるそのご理解を、まぁ夕べの(?)から(?)頂いた。(?)に金の杖をつけば曲がる、竹や木は折れる、どうぞお互い(?)から打ち込んだ信心をさせてもろうて、ね。金にすがらず、木や竹にすがらず、ただ自分の我力だけにすあらず、 本当にそういう場合神を杖についての信心生活でけるようなおかげ頂かなきゃならん。 そこに頂いていくのは平生心。ね。安心である。神様におすがりさせて頂いてからの生活。それを、んー・・・お互い信心させて頂いておりますから・・・日頃まぁ何でもない時には「金光様、金光様」と言いよる、まぁちょっとした難儀ぐらいなら、まぁ「金光様、金光様」と言うておすがりもし(?)もしておる。ところがすこしその、すこし言うなら 難儀な問題が大きくなってくると、言うならもう普通の(?)の道をある時には杖をついておるけど、いよいよ山坂にかかって、いよいよもう杖が必要だという時になるとその杖を外してしまう。いわいる神様を外してしもうてから、「さぁあの人に頼んでみろうか、さぁあの金にたよる」といったような事になってっくる。それではおかげは受けられんという御理解でしたが、今日は私が午前中ここ座らせて頂いとって、もうそういうお取次ぎが、非常に多いかたったですね。もう中に一番私が感じしました事は、鹿児島の西の方 ですけどね、あの、ここであのー、目が目が(?)さんが目が見えるようになったという人の、お導きが参ってきた、ここに三回か参って来たんですね、もう椛時代でしたからもう、一年ちょっとぐらい。それでそん時にお参りをして見えたのが、高校に行きよる娘 さんが、その頭は良いんですね。ところがその非常にその巧妙な嘘をつく。 もうそれはもう、もう(?)ぐらいにその、まぁ巧妙な嘘をつく。もうその為にもう沢山な人がその友達も困らせたんですね、その学校の友達も。学校の先生達までその巧妙に だまくらかす、そしてそのやっぱり嘘ですから最後はばれて(笑い)結局(?)て来るのは、家に出て来られたんですよね。もうその事がですね、親としてもう難儀じゃったんですよ、でその事の、あのー、そのーお願いにされておったんです。そん時に私はあのー 勿論親も騙されるですよ。もうそりゃもう、お金なんかでもそりゃもうしかもその金額は大きいですよ、「一万五千円、一万五千円」て、もうさっち出してやらじゃんごたる嘘を見事につかんじゃる。それで( ? )そういう金は全然使ってない。どういう風に使ってるか知らんけれど、そういう風にその泥棒する訳じゃないけれども、嘘の、 こりゃだからもう、いよいよ嘘をつくのは泥棒の始まりと昔から言われておるのだから、これはこのまま、嫁んどん行ってから主人を(?)り、主と親どんだましたらもういよ いよいかんち言うので、あのその事が苦になってからね、あの、お願いに見えたんですよ。そのそれがですね、私は本当に、あの御教えというものはこんなにも徹底して守られるなら、本当におかげ頂くはずだと思うたんですけどね。その時私はこういうようなお話を いたんですね。あのー金光さまの信心ははじめてです私があの、(親鸞商人様?)のお話をさせて頂いたんです。ね。その(親鸞商人さま?)はですね、もう「周囲の一切全ての事が、この(?)人のためにある」と言われた、その中にはですね、例え言うなら、ね。自分が騙されたり、取られたり、または悪口を言われたり、ね(?)られたり、自分を罪人あつかにまでした人達それがあったんですよね。けれどもそれを全部(親鸞商人さま)は「自分一人の事のためにある」と言うて頂かれたんです。ね、そういうその豊な平生心というか、豊な心を頂くという事、その自分を嘘をいうた、家の娘が嘘を言うという事だけがですね、攻め立てるのじゃなくてです。「もう本当に私の家内も私もそんな嘘やらは言わんのに、どうしてこんな子供がでけたじゃろうか」とこう言う。ね。その嘘もまぁ本当に、嘘も方便的な嘘ならいいけれども、もう学校全体をその困らせるような嘘をいう・・・。ね。そこでそのまぁ、その目が見えないような人が、ね。それが山に草切りいってからですね、そのーその人とあって、「この人が目が見えじゃったはずの人が草切り切って来ちゃるのに、びっくりしてから、あの人とんころが、ここで話しを聞いたというて見えたんです。ね、( ? )ありがたい場所は、思ったんですがね、ところが、その娘さんが今度 あの、(?)につかえる事んなった、( ? )。ね。ところがですね もう本当に先生にお願いさせて頂いてそれから何回か会ったですけれどもね、「もう本当にこりゃ自分一人の為に娘がこういうような嘘を言うんだ」とこう思うて、それを娘を攻めずに、自分自身、夫婦が一生懸命(親鸞商人さま?)のそのお言葉じゃないけれども、 私たち二人の為にこれがあると思うて、平生心を頂くことに、一生懸命なって、いわいる 訳は分からんけれども、「金光様、金光様」ですごさせて頂きましたらです、まぁ(?) ちょこっとばっかりの間に、もう全然嘘の影そひそめてしまった。始めは気がつかなかった。(笑い)ふっふっふ、そげんはっきり分かるとじゃないもんですからね。 ところが最近じゃですね、もう実にその、まぁ誠実になってきた。ね、もういよいよ本当にあの嘘を言わんようになって、しかも今度(?)があってから(?)るようになった。 まぁそれは、そのおかげでもあると同時に、「今日は、夫婦でお礼にでてきませた」と言うて、夫婦で、そん時にはお父さんだけですた。今日は夫婦でお礼に出てみえました・・・鹿児島から。( ? )、ね。例えばそのお話を聞いてからでも分からして頂く事はですね。いかに私どもが平生心を養わなければならんかという事が分かるでしょう。いかに自分を豊にしなけらばならないかという事が分かるでしょう。 ね。しかもその、例えばその娘さんの事で、段々自分の心をその大きくしていって、豊にしていった。ところがなら、その娘さんが今度は、んー縁談があって、( ? )た結局自分の子供(?)一番の心配の種であった。その( ? )ことになられた。 ね、いわいる大きなおかげに繋がっていくわけですよ。ですからお互いが、どういうような(?)があっても、やはり(?)にもてないような事もありますけれども、お取次ぎを頂いて、そういう時ほど、神を杖についての信心がでけなきゃならんかという事が分かる。 「今日は私その今朝からね、こういう御理解を頂いたんですよ」と「今日はそのあなたのための今朝の御理解のような、御理解だったですね」と言うてから、話したところでございますけれどもね。確かにあのー子供じゃない。ね。自分の(?)のだれかれじゃない。 そういう、一切が難儀な問題でも、ね。それを自分一人の為にそれがあっておるんだという気持ちになっていく。その事をいかに平生心で、普通のこころで、ね。山道にかかっておっても、神を杖について行けば、ね。なるほどきつい、見たり聞いたりすれば腹も立つ。 けれどもそこんところをです、いよいよ平生心を作って行くことに勤めていけばそれだけで幸せなのに、それだけでも幸せ。ね。その難儀な問題を後で平生心で受けられるだけでもありがたい。けれどもこれにはです、そういう心が豊に大きくなっていくからもう絶対大きなおかげにも繋がる事なんですからね、もう一言二言じゃないのですよ。 本当にまぁ、あのー、金光様の御教えをですね、えーその後全然参っても来られなかったですけれども、そういう時にはやはり心のそこから、金光様唱えさせて頂いてから 今日はそういうような遠隔のところから、お礼参りをさせて頂いたというてその、その話 から感じ。今朝の御理解の一段とこう、裏付けさせて頂く思い。同時にいかに、私どもの心の中に、和賀心が、和らぎ賀ぶ心が必要か、豊な大きな心が必要か、ね。 いかに、どのような場合でも平生心で居れるという事がありがたい事かという事を感じ。ね。その事がありがたいと言うだけではなくて、それがいよいよありがたい大きなおかげにまで繋がっていくという事を感じさせて頂きましたね・・・どうぞ。 けんいち